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織田・徳川連合軍 | 武田軍 |
天正3年 (1575年) 2月28日 |
奥平貞昌、長篠城主となる | |
4月 5日 | 勝頼、甲府を出馬(1万5千の兵) | |
4月21日 | 長篠城 守兵500人 鉄砲200挺 | 長篠城を包囲(8千人) |
5月 6日 | 二連木・牛久保城を攻落 酒井忠次守る吉田城を攻める(兵1万3千) 家康は城内にいた |
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5月 7日 | 勝頼、酒井軍と交戦するも、兵を引く | |
5月 8日 | 本格的に長篠城を攻撃 長篠城を包囲(1万5千人) |
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5月11日 | 豊川に筏を浮かべて渡合から野牛郭を急襲するが、失敗に終わる。 | |
5月12日 | 甲州の金堀り部隊により城内突入を図るが、発見され失敗する。 | |
5月13日 | 信長、岐阜城を立つ | 瓢丸(ふくべまる)に突入したが、城兵の烈しい防戦のため城外へ引き揚げる(800人戦死) |
5月14日 | 城兵は本丸に退き、守備を固める。 信長岡崎城入り 夜半、鳥居強右衛門勝商城外脱出 |
ついに食糧倉庫を奪取。三ノ丸、弾正曲輪などを占領。 兵糧攻めに切り替える。 大野川、寒狭川に鳴子の網を張り、城兵の脱出を監視する。 |
5月15日 | (強右衛門) 明け方、雁峯山で脱出成功の狼煙 (強右衛門) 夕刻、岡崎到着 長篠城の危急を報告 信長、16日出陣を決定 |
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5月16日 | 信長牛久保城着陣 (強右衛門) 雁峯山で援軍到来の狼煙 武田の兵に捕らえられる |
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5月17日 | (強右衛門) 早朝、長篠城門の堀端で「織田・徳川軍の到来」を叫んだため、磔の刑に処せされる |
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5月18日 | 信長、野田城を出発 極楽寺着陣 ただちに設楽原で布陣に取りかかる |
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5月19日 | 馬防柵完成 | 大通寺にて軍議 馬場、内藤、山県らが両面作戦の不利を説き、退却を勧告したが、勝頼はこれをしりぞける |
5月20日 | 夜 軍議を行い、鳶ノ巣山の奇襲を決める 酒井忠次率いる奇襲部隊、出発する |
長篠城包囲を解き、鳶ノ巣山に兵1千を残し、清井田原に全軍移動 |
5月21日 | 午前6時 設楽原で決戦の火蓋が切られた 午前8時 酒井忠次鳶ケ巣山奇襲する |
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丸山が占拠されたり、第3の柵が破られることもあったが、かねての作戦どおり足軽を柵の前に出して鉄砲で射撃し、騎馬隊が肉迫してくると、柵の後に隠れて鉄砲で攻撃することを繰り返すことによって柵ぎわで損害をあたえるという巧妙な作戦で翻弄し、戦いを有利に進めた。 | 武田騎馬隊は南北の柵の切れ目から背後に回り込み、ひるんだ隙に中央に集中攻撃することを作戦とし実行しようとしたが、連合軍が作った馬防柵、堀などや自然の要害としての湿地帯、連吾川に阻まれたうえに、三段構えによる鉄砲隊の銃弾を浴びて相次いで倒れる。 | |
午後2時 総攻撃を命令 長篠城 奥平貞昌も敗軍を追撃 ただし、信長は総軍の半分で追撃させ、深追いは許さず |
勝頼、近臣に止められ敗走 名だたる武将の多くが討死する。 |
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5月22日 | 信長、陣を払う | |
5月25日 | 岐阜に凱旋する | |
天正10年 (1582年) 3月11日 |
織田軍に包囲され、天目山麓にて勝頼が自刃し、武田氏滅亡する |